2012年1月22日日曜日

ジークンドーとの出会い

January 21, 2011. Written in Kaoshung, Taiwan.

ジークンドーとの出会い

ジークンドー会館で忘れた空手の帯を取りに行ったある日。

古い建物の10階にあり、ジークンドーの他にも香港では主流のクンフー「永春拳」、剛柔流空手、それから極真カラテの団体に貸し出しされている。私が訪れたのは昼間だったが、前回みたいに人がいないのではないかと恐れながら10階でエレベータを降りた。ところがちょうど会館の扉を開けようとしている30代前半に見える男性がいた。背は決して高い方ではないのが、かなり筋肉質である。
「あの、前日に忘れ物をしてしまったのですが…」
「ああ、どうぞどうぞ」
「すみません」そう言いながら、男と一緒に会館の中に入った。
更衣室のど真ん中に、私の帯が置いてあった。
「ありがとうございます」
男が頭を振った。そのまま帰るところだったが、思い直して声をかけてみた。
「あの…永春拳の方ですか?」と。
「いいえ、ジークンドーです」
「へえ、そうですか。ちょっと興味があるのですが、体験できないでしょうか?」
 「いいですよ。体は健康ですか?」

友人のアパートに帰ってみると、さっそくインターネットでジークンドーについて調べた見た。映画スターのブルース・リーが作ったもので、正しく言うと武術ではなく、概念です。永春拳をベースに若い頃から武術を身につけたブルース・リーの磨いた技よりも、彼の思想や哲学を理解するためのものです。

ブルース・リー曰く、武術には流派が不必要で、水のように柔軟なものであるべきだ。だから多くの武術で行われる「型」というものがジークンドーにはない。人にはそれぞれの個性があるため、ある決まった形を行うのには無理があり、実際にいない相手を想定して型を行うのは「陸で水泳を覚えることと同じ」という考えである。これが正しいかどうかは別として、なかなか面白い考え方ではあると思う。それがすべてだと思わずに、少し体験してみてもいいのではないかという気になった。しかし、ジークンドーは個性を磨くものならば「体験する」とは一体どういうことだろうか。形(型)がないのならば、ジークンドーそのものは存在せずの同然なのではないか。そして、これこそがブルース・りーの目指していたものだと思う。ジークンドーは修行するものではなく、頭の中のどこかになくてならない「自由な思想」のことを指し、それを持った上で自分の信じている修行をすればいい、と。この思想を少しでも理解した上で、再度空手に励んでもいいのではないか。

と、そういうわけで、その数日後、ジークンドーのクラスに体験させてもらった。 前日会館で出会った男が指導員だった。練習生は10人くらいで、ジャージを着てる人もいれば、普段着の人もいる。そういう意味でも、ジークンドーは決まった形を取らず、人の個性を意識するわけか…。

練習は厳しい柔軟・筋トレから始まった。いくら個性があるといえども、どの人間にも共通して行わなくてはならないものがある。その後、実戦を想定した練習に入った。ジークンドーはすべて実戦を意識したものだ。試合があると人は「ルールに限定された」戦い方をしてしまうので、その分自由をおば割れているわけだ。
全体的にフットワークの練習が多く、それから反射神経を意識した練習が中心だった。たとえば、指導員が目を動かすのを見極めて、動かしたと見た瞬間にパンチを出すといったような練習があった。なるほど、これは確かに人に何も「形」を強制することなく、人の能力を向上させる練習ではある。
だが、このジークンドーに対する批判感がまったくなかったともいえない。非常に科学的で理にかなっているのは間違いないが、逆に科学的すぎて、自由になるはずのものが自由になれない。たとえば、一瞬でも早くパンチを出す方法を教わったが、必ずしも「一番早い」、あるいは「一番効率的」が、一番いいとも限らないと思う。人には個性があり、たとえそれが一番効率的な方法ではなくても、変則的な動きが相手を驚かせ、有効になる場合もある。ブルース・リーはきっとことことをわかっていたに違いないと信じているが、私が体験したジークンドーは、「自由」をアピールしながらも結局練習生に「効率性」を求めていたのである。しかし、そもそも「教える」というものが入った時点で、それはもう「自由」から離れているものとも言えるのかもしれない。だから、ジークンドーというのはやはり「学ぶもの」ではなく、頭の中のどこかになくてはならない「精神」であればいいのだろう。
体験させてくれた指導員に感謝!!

1 件のコメント:

Yasuko さんのコメント...

なんか複雑そうな格闘技だね。。。難しい(^^;)

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