2012年3月17日土曜日

実行委員長が教える中国語

March 17, 2012. Written in Thakhek, Laos.

実行委員長が教える中国語

ルアン・パバーンというラオスの北に位置する町は落ち込むほどに観光地化している。町を歩く人々の9割がたが外国人で、地元の人はホテルを経営したりレストランを開いたりフルーツを売ってみたりトゥック・トゥックで外国人を高額で観光地まで送ったりするだけで、平凡なラオスの日常なんて見られやしない。

と、思っていたが、ルアン・パバーンでの二日目は日本人のMくん、それから4人の中国人バックパッカーと一緒にボートに乗り、メコン川の反対側に渡った。

観光地化されたルアン・パバーンがすぐそこにあるのだというのに、川の反対側での生活は驚くほどに違った。素朴でシンプルな現地民の生活が披露されていた。デコボコで未舗装の
道、走り回る上半身裸の子どもたち、弥生時代を思わせる民家、広がる数々の田んぼ、これぞ僕の求めていた本当のラオス暮らしだった。

少し歩いて見ると、民家の縁側で何か野菜か果物っぽいものを切っているおばさんがいた。となりには可愛い幼児がのんびりして座っていた。

おばさんは笑顔でわれわれを迎え入れ、一口くれた。それはいちじくにちょっと似た味の、ジャムっぽいものだった。中国人バックパッカーのAくんは気に入ったようで、二袋を買っていった。おばさんに許可を得た上で、民家の中をひと覗きしてみた。電気こそあるものの、本当に日本の弥生時代を思わせる雰囲気だった。古そうな土器、竹でできた床や穴だらけの壁、ところどころに落ちている燃えた炭の後。
このようなところに生まれたら、いったいどんな人生になっていたのだろうかと想像してみた。だが、それはそんなに難しい質問ではない。農作業をしながら地元の学校に通い、大きくなってもひたすら農作業か、あるいは町に商品を売りに行く。そんなシンプルな生活だ。そこには旅という概念もなければ、都会に出て出稼ぎをするという概念すらないのかもしれない。

もう少し進むと、学校らしいところに出てきた。元気な子どもたちが手を振って「サバイディー(こんにちは)」と言う。とにかくラオスは微笑みの国で、すれ違うとみんな心からうれしそうに声をかけてくれる。
授業中だったので教室の中を覗いて見た。すると、子どもたちは興奮し、変な顔をしたりわれわれの方を指差したり大声をあげたりした。
教授が数人出てきて、二人英語の話せる人がいた。
「せっかく来てくれたから、あなたたち、自分の言葉を子どもたちに教えてくれよ」
 これはこれは、なかなかない機会じゃないか。地元の学校に潜り込むだけでも大変面白いが、直接子どもたちと接する機会があるなんて! ちなみにこの学校は日本にあたる中高等学校で、12歳から18歳までの学生がいる。教えることになった教室は最高学年で、子どもというよりは若者といった方がふさわしいのかもしれない。そんなわけで、僕はMくんと組んで日本語を教え、中国組みからは熱血なAくんが代表して教え始めた。実行委員長のような性格を持つAくんは何もかもまじめで、びっくりするほど真剣に自分の役割を受け止めたようで、黒板を利用しながら真剣に中国語を教え始めた。値切るにしても、誰かと会話するにしても、道を尋ねるにしても、彼はいつもまじめで、積極的で熱く、しかも不正を許さないという大変好意の持てる青年だが、その実行委員長っぽい振る舞いがMくんと僕とをたびたび笑わせる羽目になった。

授業が終わるとそろそろお腹が空いてしまい、一人の学生が案内した地元の食堂で昼食をとった。ラオスによくある白いコシのない麺で、味付けはライムや砂糖からなりたっている。この食堂の近くには外でデザートっぽいものを売っているところがあって、甘い液体に入ったバナナとタピオカみたいなものがすごく美味しかった!
美味しく食べていると、われわれを反対側までボートで送ってくれたおじさんが覗きに来た。
「急がないとさっきに帰るよ!」と言いたいらしい。

ボートでもう少しさっきにあるお寺まで案内してもらった。不安定そうな竹の橋を渡って、長い階段を昇ってお寺に到着するわけだが、入り口には入場料を取ろうとする地元の子どもたちがいる。もちろん正式なものではないので、旅慣れしているMくんと僕は払わずに通り過ぎたが、まじめな中国人たちはちゃんと払ってから入場した。お寺自体はそんなに対したことはなかったが、ここも観光客は一人もおらず、代わりに暇そうに階段に腰掛けたり木にもたれたりしているお坊さんがいた。さすがはのんびり王国のラオス!

こういう地元の生活がもっと見たい! そう思う一日だった。

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